これは、べるりんねっと789発行オンラインマガジン「BN789」の2001年6月号に掲載された内容です。

特別寄稿
ベルリンで没した偉大なる指揮者、
シノーポリ氏の訃報によせて
マーサ ビークル

2001年4月21日 午前1時30分

 K先生、唐突ですみません。今夜、ベルリンでシノーポリが亡くなりました。

 今夜はDeutsche Oper Berlinで、彼の指揮による”アイーダ”の公演がありました。 私は、最近Deutsch Operを良く聴いているのですが、今夜は満席、冒頭から、いつもとは明かに違う緊張感に包まれていました。人気のティーレマンの時でさえ無かった ような張り詰めた響きは、オケピットの中が突如として超一流のオケになったかの如くでした。

 第1、2幕の後、休憩をはさんで第3幕が始まり、アイーダがラダメスと逃亡の話をするアリアの時に、突然、何かが転げ落ちるような大きな物音、会場の照明がすぐさま明るくなり、オケの団員は一斉に立ちあがり、主役を含む歌手達はオーケストラピットをのぞき込み、ただならぬ雰囲気に包まれました。ピットからは大きな声が飛び交い、心臓マッサージをしていることが伺えました。客席では、あちこちで、「倒れたのは、シノーポリか?」との声。まもなく、舞台に出てきた係員から、全員ロビーへ出ろとの指示。そのまま公演中止のアナウンス。今日は降り番だった首席ソロオーボエ奏者の渡辺克也さんのご自宅に電話を入れて、事態を報告。何とも言えぬ雰囲気の中で、妻と共に言葉少なげに帰宅の途につきました。救急車は楽屋口のある Richard Wagner Strasseに停まったまま、いつのまにか青い非常灯も消えていて、動く様子も無いのが気になりました。

ドイチェ・オパー・ベルリン


当日のアイーダのパンフレット

 家でシャワーを浴び終わった0時半過ぎに電話が鳴り、不吉な予感で出てみると前述の渡辺さんから、彼が亡くなったとの報告。すぐさまテレビをつけてみると、赤いテロップで".. ist tot.(・・・死亡)"と・・・ 。午前1時のニュースでは、写真入 りでの報道がありました。テロップによると、2003年からは、つい先週聴きに行ったばかりのドレスデン・ゼンパー・オパーへの就任が決まっていたようです。

 ドイッチェ・オパーでは、演出のゲッツ・フリードリッヒと喧嘩をして以来、振っていなかったそうですが、ゲッツとの和解を契機に再登場したのが今日の公演。今夜のアイーダもゲッツによる演出。しかし、そのゲッツは、今夜の公演を待たずして、昨年12月に他界。1982年のプレミエ以来、183回目の公演でした。

 稀に見る緊迫感に満ちた演奏、シノーポリの指揮姿、そして倒れた時のけたたましい物音が、いまだに脳裏に焼き付いています。

 心から、冥福をお祈りいたします。


追 記

 シノーポリは、80年代の終わりにDeutsche Oper Berlinの音楽監督になる予定でしたが、総支配人・演出家のゲッツ・フリードリッヒとの確執から、実現しませんでした。何年も顔を合わせていなった二人が再会したのは、2年前の春。フリードリッヒがローマのシノーポリを尋ねた時でした。彼はシノーポリに、何年も考え抜いた言葉を切り出しました。「私は、Deutsche Operであなたとの最高の仕事を成し遂げるまでは、このオペラを去ることができない。」 と。この時二人は、感激のあまり、抱擁をしたと言います。そして、作品はヴェルディの「アイーダ」に決定。言うまでも無く、それがあの夜の演奏。シノーポリは、このやりとりについて、以下のように語っています。
「今年がヴェルディ没後100年にあたることは、全く考えになかった。きっとこれは、私達の運命だったに違いない。」
 精神分析医でもあったシノーポリが”運命”という言葉を使った二人の関係。次なる運命は、昨年12月。フリードリッヒの死という形で訪れました。決別したまま、約束を果たせなかったシノーポリの心中は、いかなるものだったのでしょうか。期せずしてフリードリッヒの追悼演奏となった「アイーダ」。数年振りに戻ってきたDeutsche Operのプログラムに、彼への追悼メッセージを残したシノーポリが、その演奏中に、まるで後を追うようにして亡くなりました。

 改めて、ご冥福をお祈りしたいと思います。


執筆  マーサ ビークル
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